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憧れの高原列車『小海線』に捧げる叙情詩
小海線ロマン紀行
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序章

開通当時の小海線名物、客貨混合列車
 高速道路網の発達でその活躍の舞台から一歩退いたJ R小海線。ひと昔前には『高原列車』ともてはやされ、臨時車輌を増結し、当時若い人達の旅の象徴でもあった『清里高原』と融合し、八ヶ岳への表参道的な役割を担い旅人を運んだものです。
 ディーゼル列車の小海線は2両編成か1両がよく似合うと思います。そしてそのディーゼル列車の良さが発揮されるのは冬ではないでしょうか、それもものすごく寒い冬。あの微調整のきかない
暖かさが座席の下から感じられるだけで旅を満喫できたような、そんな気持ちにさえさせてくれますよね。
 2月の寒い朝、前日に買っておいた缶ビールをデイバッグに詰め込み、甲斐大泉駅から小諸行きに乗る。走り始めたらすぐに川俣渓谷の崖を回り込む。葉の落ちきった林の間から渓谷と晴れていれば富士山だって見ることができる実に見事な渓谷の景観です。トンネルを抜けると雪化粧をした八ヶ岳が牧草地の向こうに、別荘地の向こうに、森の向こうに、畑の向こうにと様々にお色直しをして楽しませてくれます。信濃川上から谷に下った列車につき合ってくれるのは千曲川の豊かな流れと佐久平ののどかな田園風景です。このあたりで缶ビールも飲み干し、ほろ酔い気分でしばしうたた寝。気がつくとまわりがざわざわと人も多い。臼田駅、中込駅辺り、小海線は生活に欠かせない交通手段なのです。終点小諸では、懐古園で日向ぼっこでもしてから駅周辺でお蕎麦を味わうのもいい。こんなのんびりしたローカル線の旅が出来る小海線はやはり『憧れの高原列車』です。

第一話 小淵沢駅と小海線

 高原列車の乗換え駅、乗馬の町、湧水の町、八ヶ岳登山の駅、旅のお楽しみ駅弁、「元気甲斐」弁当の駅。これらのイメージを持つ小淵沢駅。今回はその歴史を辿ることにしました。
 明治37年中央本線韮崎−富士見間開通に伴い小淵沢駅が開業しました。「小淵沢」、正しくは「こぶちさわ」と読みます。
 このころ甲州財閥の巨頭雨宮敬次郎が軽井沢の植林事業に目を付け、明治45年の「免許願」以降路線化計画に参入。「軽便鉄道法」の制定、東京資本の導入などを経て小海線計画は始まります。
 ここ小淵沢駅が小海線の始発駅に至るまでには紆余曲折がありました。その着工は大正11年小淵沢、甲斐小泉間から始まるのですが、地元の人々には信越線、中央線、東海道線を接続して、日本海と太平洋を結ぶ日本列島横断のロマンと、静岡・山梨・長野・新潟の共栄圏を実現しようという壮大な構想がありました。現在の小海線と身延線にその夢を託そうとしていたのです。大正8年、既に民間鉄道として着工していた小諸・小海間の「佐久鉄道」を増富ラジウム温泉開発に結びつけ、茅ヶ岳山麓を貫き竜王駅に接続する案が有力でした。ほぼ同じルートを通る韮崎駅が接続駅運動に加わったのが大正10年頃の話です。
小淵沢駅
しかし当時の技術では小笠原〜津金〜清里へと抜ける茅ヶ岳山麓ルートの急勾配を蒸気機関車が登るのは不可能でした。そこで、甲府盆地から迂回し八ヶ岳南麓の等高線に沿った緩い勾配のルートが有力視されることとなったのです。
 ところが当時小海〜小淵沢間鉄道期成同盟会なる路線化推進団体が陳情するにあたり、政府に根回ししたのが諏訪を地盤とする政治家でした。もしもこのころ長野県側の信濃境駅が開設されていたなら、小淵沢駅は接続対象駅とはならなかったことは間違いないでしょう。小淵沢駅から緩くループを描き180度進行方向を回転させながら、まるで等高線の上を走るような路線ルートにはこんな逸話があったのです。
今では中央自動車道小淵沢インターチェンジ、国道20号線と並び山梨県の北西部最大の交通基点として機能しているわけです。
つづく

第二話 甲斐小泉・甲斐大泉・清里・野辺山

甲斐小泉駅 甲斐大泉駅
 信越線小諸駅から中央本線小淵沢駅を鉄道で結び、太平洋と日本海を横断という壮大な計画。当時計画路線地域の大部分は未開発の地で、八ヶ岳の実態はそれほど知られていませんでした。この計画の協力者であった小川平吉代議士は、両県の代議士、県議、沿線の村長らに呼びかけ乗馬隊を結成し、小淵沢駅からなんと長野県臼田まで実地踏査を敢行したのです。大正11年9月2日のことでした。総勢200余人、八ヶ岳山麓を行く大乗馬隊。政治家自らが馬にまたがり原野の踏査に汗を流す姿に現地住民達はいたく感動したと言います。期成運動に参画した政治家のちょっとした「いい話」ですね。
 かくして昭和10年11月清里から信濃川上間の完成をもって全長78キロメートルの日本列島横断のロマンを載せた路線は全線開通し、正式名称も路線の中間点である「小海」をとって「小海線」とされました。
 この全線開通の2年前。大正の大恐慌をひきずった昭和の初期、工事中断を乗り越え昭和8年には小淵沢、清里間が開通しています。この両駅での折り返し運行は前人未踏の八ヶ岳原始林から豊富な森林資源を搬出するところから始まりました。開業当時、駅前には運送店と簡易旅館、豆腐屋の三軒しかなかった清里駅前はしだいに賑わい、隆盛期には搬出を待つ木材であふれ、10両からなる貨
車で小淵沢方面に運送されていたそうです。
 さらに全面開通と共に長野県野辺山のハクサイが積み荷に加わります。沿線地域が都会人のあこがれを乗せた「高原列車が走る観光地・避暑地」として、売り出されたのもこのころからです。
 しかし、世界情勢から見れば、日本は太平洋戦争に突入する直前。この野辺山を「農場からグライダーの訓練所へ」のスローガンの下、演習場が作られ、戦時色を濃くしたのもこのころからでした。戦後、野辺山はレタスを中心にが高原野菜生産地として蘇ります。さらに、路線には蒸気機関車C56が登場し「高原のポニー」の愛称で全国の鉄道ファンの人気をはくします。
 甲斐小泉駅は昭和30年の町村合併により、長坂町の駅となりました。付近には名水百選で有名な三分一湧水があり、甲斐駒ヶ岳と富士山の眺望が見応えのある麓が広がっています。甲斐大泉駅は、昭和8年開業。昭和47年国鉄の簡易委託駅として「おばあちゃん駅長」が誕生し後のペンション人気と並んで大泉高原を訪れる人々に人気を呼びました。清里では戦後ポール・ラッシュ博士が再来日し、昭和30年に建設した清泉寮、農村センターの成功と学校寮の誘致などで昭和40年代から「若者の街・清里」の名声が全国的に確立して行くことになるのです。(つづく

清里駅 野辺山駅

 
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